ソ連時代、エストニアでの幼少期

義母は生後 7 ヶ月でシベリアからエストニアに来た。さらっと聞いた幼少期の話などを書いてみる。今まで書いた義母のお母さんの話義母のお父さんの話とも少しリンクするので合わせて是非。

実はエストニア政府はソ連の構成国だったことを公的に認めていない。ソ連に占領/併合されていただけで国家は消滅していないという見解で、実際にスウェーデンなどに正式な亡命政府を置いていたのでエストニア共和国は存続していた。しかし日本政府はソ連の構成国の一つにエストニアを挙げているので、このブログではやや曖昧に「ソ連時代のエストニア」と書く。

この辺の歴史認識は個人でもかなり異なるので、誰かと話す時は留意するべきである。旧ソ連国家と書くのを嫌がるエストニア人は多い。ちなみにエストニア人は当時のことをvene aeg(ロシア時代)かnõukogude aeg(評議会=ソビエト時代)と呼ぶ。

シベリアで誕生

生まれはシベリアの工業都市。早産(7 ヶ月※日本でいう 8 ヶ月)だったので、母は近くの病院に行ったけど看護師に「ファシストと結婚したならソイツの国で産め」と門前払いされた。でもそこにいた医師は「いや、引き取る」と言って、無事に生まれた。出生時に肩が引っかかったのか引っ張られたのか…長らくダランとして動かなかったらしい。今もやや後遺症がある。

義母がこの肩は医者や看護師が怒っていたせいじゃないか、と言っていたのが印象深い。

父は子供たちにエストニア語の名前を付けたかったけど、「外国の名前はダメ」と拒否されてロシア語の名前をつけることになった。5 歳離れた兄も同様。

シベリア鉄道でエストニアへ

1963 年、生後 7 ヶ月の時に父、母、兄と一緒にシベリア鉄道に乗り、1 週間かけてエストニアに到着した。家族全員の手荷物はスーツケース 4 個だけだったらしい。

エストニアでの生活

家では基本的にロシア語。父はあまりエストニア語を話したがらなかった。ロシア語を話していたから、近所のエストニアの子供たちに「ロシア人出てけ!」と石を投げられたりした。

学校

兄は 5 歳だったので、そのままエストニア系の学校へ入学した。すぐにエストニア語を話せるようになり、成績もオール 5。でも母が手伝えないからという理由でロシア系の学校へ転校させたものの、ロシア語が足りてないからとそのまま二年生に上がらせてもらえず、一年生からやり直した。同じクラスにいた女の子は転校してもそのまま二年生から始めれたらしい。

義母は最初からロシア系の学校へ、でも成績は悪くてロシア語が微妙。学校にいたエストニア語の先生には「エストニア系の学校へ行くべきだ」と言われたらしい。父方のおばあちゃんとはエストニア語で話してたからそこで学んだ模様。

ちなみにエストニア人家庭でも「ロシア語がソ連の共通語だから」と子供をロシア系の学校に行かせる親もいたらしい。もし他の国に行くことになっても、ロシア語ならやっていけるからね。

今だと海外転勤の多い親の子が英語のインターに通う感じなのかな。というかエストニア語の文学やら諸々が禁止されてたと思ったけど、普通にエストニア語で学校が存在したんだ…?

ちなみに母はシベリアでドイツ語を学んでたからドイツ語が堪能で詩を書いたりしてたらしい。いつも図書館に行って本を読み尽くすようなタイプ。エストニアに来てからすぐにエストニア語を学んだようだ。見習いたい。

その後の国籍

兄は確か 16 歳(正確ではないかも…)の時に、最初のパスポートでロシアを選んだ。そのせいかソ連崩壊後にエストニアのパスポートを簡単には発行してもらえず、長らく苦労したんだとか。最終的にはエストニア国籍。それに対して義母はエストニア語で国籍エストニア国籍を選びますと一筆書くだけで済んだらしい。

義母の知り合いの話ではエストニアに来ていたフィンランド人の母とウクライナの父を持つ子がロシア国籍になったとか。ウーン…なんで?

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